電車の中で騒ぐ子供は親が悪いのか
世の中の問題点になったり
小さな地域での問題点になったり
親として自分を責めてしまったり。
本当はここを重点的に考えていかないといけないのかもしれない。
やってもやっても子供の行動が周りからダメ出しをされてくる。
そうなると親としてはもう自分を責めても救われず
子供を責めても結果は変わらず
自己肯定感だけが下がる
0に近づいた自己肯定感を精一杯守るために、間違っているのは自分ではなく周りだという結論になってしまう。
これはとても無視できない流れだ。
例えば我儘であったり集団生活や社会の中でうまく対応できなかったりすると、まず気になるのが周りの視線や言われてしまうこと
親は何やっているんだ
〇〇ができてない
みんなできるけど△だけできてない
いつまで○○しているのか、まだやめれないか
などなど
こういったことを言われると、対応しようとしたり気にしなかったりといろいろですが、集団生活という一つの社会の中で生活する以上は無視することもできない。
ここが実は重要点になると思います。
家族だけで島で暮らしているのであれば、何とでもなりますが、他人と暮らす生活の中ではそれぞれの個性を尊重しつつ共有しなければいけないこともある。
トイレを使わずに自由勝手に撒き散らかすわけにもいかないんです。
そこで親としてはそれぞれ対応はしていますが、それでも子供の行動と結果が繋がらないことが当然のようにある。
行動は各個人の価値観から生まれる。
何を重要視するか、何を優先するか、何を避けるか。
価値観の形成は日常生活から生まれてくるために、当然のように行われる自分の毎日の生活に何が原因なのかということは気づくわけがない。
(間違いを犯していることを気づきながら生活をしている人は滅多にいない)
酒、たばこというハッキリと体に悪いというのは、わかりやすいですが朝、子供たちが起きて三食食べて夜寝るまでの中で生活改善を考えても、そう簡単には見つからないんです。
自分たちは当たり前の毎日を送り、間違ったと思うことがあれば当然のように修正して生きているから、当然よう生きている生活の中で原因を探そうとするのはウォーリーを探すよりも難しい。
これだけ難しいことを前提に考えれば、○○できてない、○○がまだダメのようだ。と言われて理解して対応しても実際の原因を突き止めて改善できるのは、宝くじ並みの確立かもしれないのです。
それなら放置しておけばいいのか⁉
放置することはしません。
どう対応するのか
社会の中で生活することが前提になっている人であれば社会に送り込むのは大人の責任なんです。
そうなんです。
大人の責任なんです。
ここが重要。
大人の責任
つまり、親の責任だけではない。大人の責任なんです。
これは言葉遊びではなく、真意をついているところです。
子供たちを社会に送り出すのは、いち家庭の話ではなく社会で迎え入れるのです。
その社会を作っているのは大人である以上は、関わる子供たちすべてが我々の責任の範囲です。
子育て自体がいち家族でやるのは無理、無理というよりも矛盾していることになります。社会はいち家族で作っているわけではなく、たくさんの人で形成されています。
だから、
〇〇ができてない
みんなできるけど△だけできてない
いつまで○○しているのか、まだやめれないか?
これらは親だけのせいではないんです。
気づいたんなら手伝ってよ!
と逆切れしてしまうところかもしれません。
周りも一緒になって
しなければいけないところなんです。
近所のおじさんが子供の悪さを叱っていた時代がありました、
今も少なからずありますが、そういったことが社会で子供を迎え入れる準備になると思えます。
親の責任半分、周りの大人の責任半分みたいな感じですね。
「子育てはみんなでする」ってことなんですね。
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