リズム運動。
スカート禁止
大胆な言葉である。スカート禁止
我が子たちが卒園した保育園は女の子のスカートは控えてもらっている、というよりも禁止にしている。
これはリズム運動する際にスカートが気になって「リズムが出来ない」を避けてもらうため。
ここで一つの問題も出てくる。
それは保育園以外で履かせればいい
それについて園と家庭の生活を分ける際の影響については
この記事こちらを参照
では話をスカートに戻し
女の子だからスカートに興味は当然
スカートを親、姉、親戚など見ていれば当たり前の感覚だ。
理解してもらいたいのはスカート自体がダメではなく、
・リズム運動に支障が出る
・園での生活にスカートを気にするように生活をする
こういったことの問題点に目を向けてほしいということ
支障が出たら何がダメなのか
リズム運動は単純に園側が保育業務として行う体を使ったリズム運動。
これに支障が出る場合は園としての義務に当たる業務を行えないのは問題。
(これについても他の記事に書いてますのでそちらを参照ください)
業務に対しての協力をするという形でスカートを遠慮する感じです。
協力というと堅苦しく感じるかもしれませんが、預ける側である親の心遣い的な感じですね。
園での生活に支障。
スカート汚したって問題ない!とか
スカートでも走れる。
なんて色々な声があります。
スカートが園側は支障をきたすというが、
うちの子は大丈夫!!
我が家は大丈夫!
でもそれを見て履きたくなった他の子は?
もっと小さい子は?
同じ園の中のお友達がスカートを履きそれを見て私も!となる
そうなったときにスカートを履き登園し
園での生活がスカートが気になったり、
汚れるのを気にしたりして園での活動の支障になる場合がある。
でも!
自分の家の子は大丈夫かもしれない。
だから!
他の子供のことは関係ない。
我が子だけ大丈夫なら問題ないよね?
我々は自分の子供の親であると同時に同じ園内の子供たちの保護者でもあります。
自分の子供だけが満足すれば
我が子だけ納得すれば
そういった視線ではなく
大きな視線として見てもらえたらなと感じます。
以前、長女が在園中にその年に卒園する男の子の父親(世界的なスキープレイヤー)が一言コメントをしていました。
「本当に僕の子供たちが元気に遊んでいる日々を見て本当にうれしい、可愛くてしょうがない。
そして、我が子と同じようにこの園に通っている子供たちが、自分の家の子供の思える。本当に愛おしい!」と
全員我が子
僕はこれを聞いたときに衝撃でした。
我が子だけ見ていればいい、我が子と仲の良い子だけ気にしていればいいくらいでしたが、同じ屋根の下に通っている子供たち全員を我が子と思えるような接し方、感じ方は素敵なことなんだと。
様々なイベントを通して園に親たちも通い、
ボランティアを通して関わってきます。
その時に面倒だとか大変だという感じ方もたくさんありましたが、結局のところは我が子同様にたくさんの子供たちに向けた大人からのイベント発信であることを考えると、苦になることは何一つなかったということなんです。
話はそれてしまいましたが、自分の家の子だけではなく他の家の子も我が子と同じように考えた時に集団の生活をしている間は、集団全体を我が子のように接していくのも大事と感じます。
子どもの世界
だからこそ、園での生活と私生活、リズム一つを取るにしても世界を分けずに一つの世界観の中で子供たちが伸び伸びをしてもらえるような環境を作っていきたいと感じてます。
スカートに興味が湧いたらダメ?
ここで実際の生活として、子供がスカートを履きたくなったら、
ダメダメダメ!ってことで通すのか???
履いたらいいよ!にするのか?
そういうわけにもいかない。
どうするのか⁉
基本的に禁止されている行為は、やはり禁止。
それが法律であれば20歳からのお酒、たばこ、規律など。
これと同じように園に通っている間のルールとして認識になるのですが、禁止事項があることに対してそれだけで終わる訳ではなく、
これができないけど、これがある!という状況にもっていくのがベストに感じます。
これがダメで、あれもダメ。
こういった感覚になってしまうこともありますが、
それは基本的にダメとした行為に対して○○があるという補足がない場合がほどんとです。
○○はできないけど、△がある、◇ができる、これがあるという代替案や代替するものがあると、そこに対するダメという禁止事項へのストレスが発散されて行くのを僕は何度も見ています。
そういった興味関心は好奇心旺盛の子供たちならではなので、スカートに興味を持つのが悪いわけでもなく興味を持ったから大変だぁと騒ぐことでもないです。
興味が移り変わりするのは夢中になるものが見つかってない場合もありますが、夢中になれるものを提供できていないと
親が自分を責めるのはよくないので、どんどん楽しいことを伝えていこうという気持ちでいいと感じます。
側転(課題の場合)
例えば側転をするためスカートを履かないようにお願いしても
スカートをどうしても履きたくなる、どうすれば・・・
こんな時は
側転にそこまで意識がないということも一つあります。
一人一人の個性だから何に興味を抱くのかは個人の自由です。
それを踏まえたうえで課題として取り組むことに側転があり、
その課題に対しての姿勢として向き合えないことに目を向けてほしい、
側転というより課題として見る感じです。
子供が注目するものには子供たちの価値観にマッチしたもの
興味を引き付けるものがあります。
価値観
それらは持って生まれたものではなく、家庭から生まれた生活環境からの価値観。
そのため事実に価値観、または認知の仕方が加わり、言動が生まれます。
興味関心などが向かない場合、
親も同じように課題である側転に対して
大した興味もない場合が多いです。
もちろん側転に興味ない親でも子供が興味持って挑む場合もあります。
しかし興味関心を見せてこない場合に
親の関心がないことが大半であることを踏まえておきたいです。
親が注目をしない、反応を見せないものに子供は向き合って取り組もうとはしません。
そういった部分で子供の導きを考える際の親としての注目は一つの大事な導きの要素になるのです。
周りがその子に合わせるわけではなく、
その子自身がもっと夢中になれるように意欲を掻き立てる。
周りの影響がゼロではないが、家庭から育つ価値観や意欲は外の影響に対して自分の軸を維持するもの。
そして興味がアレコレと動くのは悪いことではないことも忘れてはいけないところ。
家庭にはルールがある
そのルールは宗教であったり食育であったり、
その時に○○ができないが我が家は△ができる。
我が家にはこれがある!という自分だけの土台を形成できれば軸は固定されてきます。
ストレス
ストレスは自然と消えるわけではないので放置も出来ない。
対処の方法を早い段階で体験してもらうことが大事。
ストレス対処方法が食欲に現れたり運動という活動に現れたり、コレクター的なことに現れたり様々です。
そういった活動をみせたときに健全な方向へ導くことは大人の役目
(ストレス発散をイジメ、万引き、意地悪などに向かった時に健全な方向へ導くことが大事)
好きな方向に進めばいいですが仮にそれが昆虫の足をもいで、のたうち回る姿にストレスを解消する場合などそれを放置するわけにもいかない。
つまり勝手にストレスの発散を見つければいいわけでもない。
大人と子供が存在する世界である以上、先に生きている先輩として導きを大事にしたい。
導きは誘導ではなく導き
誘導と導きにややこしさを感じるが、誘導はこちらにおいで、この道を通って、この先のゴールに行くよという道順、
導きはただゴールが光っているぐらいで道順は無い、
行き方はそれぞれだ。
しかし方向は照らされている感覚という感じで考えてます。
保育園自体が理念を掲げて、そこに業務の義務が生じている場合、保育園への預け方も変わってきます。
単純に自然保育、食育に力入れているからと安易に見るわけにもいかず、事前にどういったことが必要か、保護者の立場として書いています。
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