子供たちを見ていると毎日新しい発見
そんな日常を過ごしております、
こんにちわ
子供たちの遊び相手は保育園時代から様々な相手です
それは年齢を分けてクラスがあっても、基本的には解放された空間では、みんながごちゃ混ぜになります。
保育園では小さい子も大きいも関係なしに入り交ざって遊ぶことも多いです。
子供だから当然敬語も関係なく、当然年齢も関係なく遊んでます。
乳幼児、年少、年中、年長、
クラス分けがあっても、子供たちは関係ない。
ただ身体的な差は感じることはあり、小さくても大きい子について行ける子は一緒に遊ぶこともあります。
逆に小さい子に混ざって大きい子が遊ぶこともあります。
その時に、小さい子が大きい子(年上)に混ざっても、
小さいからと言って鬼ごっこの鬼をやらなくても良いってことはない。
当たり前ですね
大きい子が小さい子に入って遊んでも、小さい子は気にもしません。
小さい子は敬語も使わないし、大きいからと言って特権も許さない(おもちゃ優先的使えるなど)
これらは全て、お互いが同じ園の下で遊ぶ友達だからです。
つまり
仲間。
仲間だからこそ、対等な立場であり、自分が選ぶ仲間と遊びます。
それが年上のところであっても年下のところであっても。
ここまでは当たり前に感じるところかもしれませんが、
ここは前提として踏まえておきたいところなんです。
つまり対等な仲間である以上、身体的な差や能力的な差はただの個体の差であり
年齢による差ではないってこと。
これにより生まれてくることは、小さい子だからといって譲ってもらうこともなく、年上だからと言って譲る必要性もないんです。
何度も言いますが、
仲間がゆえに対等。
小さい子に対する優しさがない?
そんなイメージを持たれる場面もありそうですが、
小さい子へ配慮する必要が無いんです。
対等だから!
もし配慮してほしいのであれば、
子供自身が遊ぶ相手を自分で選択することができます。
でも子供は自分で遊び相手を選び、
自分はそこで遊べると判断しているのです。
それを親が出てきて、小さい子への配慮が欠けていると感じてしまうのは、そこの集団は仲間ではなく個の集まりとして見ているだけになります。
ただの個の集団とみると小さい者であれば、そこで遊んでいることが場違いになります。
何故なら小さい子への配慮を期待するなら、対等の関係性は崩れているからです。
その遊び相手を選んだのは誰か⁉
小さい子が遊び相手として
大きい子を選び遊んだのであれば、
自分を大きい子と対等と判断して参加していることになります。
逆に自分が小さいことを権利として
遊んでもらうことを前提にしているのであれば、
そんな対応をしてくれない相手との遊びを終えて、
他の相手を探すことは小さい子にも与えられている権利になります。
それらは全て大人が与えるのではなく、
子供が自分で選択できるものです。
これらを踏まえ、
大きい子が小さい子と遊ぶ際に考えておきたいのは、子供が自分で選択した権利であり、自分の立ち位置を自分で決定したということです。
それを鬼ごっこなどで
小さい子ばかり鬼になってる状況を見て、
闇雲に大きい子が小さい子への優しさに欠けているという判断は
安易な答えになります。
何故なら、そこに集まって遊んでいる子供たちの集団は
仲間として遊び、
お互いを対等の立場として関係を結んでいるからです。
仲間である以上
年上、年下関係なしに対等な立場として遊びをすることが前提である場合は、立ち位置は同じところ。
そこには配慮も何も存在しないってことです。
仮に小さい子への配慮を踏まえるのであれば、
それは大きい子が依頼されて預かるのであり、
一緒に遊ぶのではなく遊んであげる業務になります。
これは対等ではなく上からの視線で対応していることになるわけです。
子供と子供が遊ぶ際にどちらを選択し、
どういった決定をするのかは親ではなく子供たちであり、
その結果は親として見守り続けていきたいと考えています
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